岡崎市のこんにゃく製造販売の「味工房うめきん」は、100年企業を目指し、美味しい蒟蒻とともに環境貢献型商品として、消費者の皆さんに環境を守ることの大切さをPRします。
縄文弥生時代> -紀元前3世紀頃まで
コンニャクの原産地は、インドネシアあたりと言われています。サトイモ科に属する多年生の草本で、地下に球根ができます。この部分がこんにゃく芋で、「コンニャク玉」と呼びます。我が国への伝来は、縄文時代にサトイモなどと一緒に来たとの見方と、仏教徒のつながりから中国より導入されたとの見解があります。
奈良時代> 710年-794年
中国では、700年ごろに作られた古詞にコンニャクの文字が出ており、そのころすでにこんにゃく栽培がおこなわれて、食用に供されていました。我が国では、900年代の書物に「コンニャク」の記述があります。
鎌倉時代> 1185年-1333年
書物にはコンニャク業者の組合である「こんにゃく座」が設けられたとあります。こんにゃくは、初め医薬品としてまた間食用として貴族や僧侶の間で珍重されていました。やがて仏教が民衆の信仰として広まるのと同時に一般に知られてきました。
室町時代> 1336年-1573年
この時代には、路上で売られていたとの記録があり、精進料理にも使われているようです。僧の玄恵が書いた庭訓往来(1330年)によると、糟鶏と言って、コンニャクをタレ味噌で煮たものが、唐伝来の間食となったとあり、これがおでんの始まりとされています。
江戸時代> 1603年-1868年
コンニャクを農業に取り入れ奨励普及したのは、江戸時代になってからです。茨城県の久慈郡地方が関東で最初の産地です。1700年代の後半に、中島籐右衛門により荒粉・精粉の加工法が考案され、販路拡大と各地での消費が高まり、産地の広がりとともに全国栽培が始まりました。これにより庶民も頻繁にコンニャクを食べる習慣がつくられたそうです。
明治時代> 1868年-
群馬県での蒟蒻芋生産は、室町時代に南牧村の茂木正峯が紀州から移入したのが始まりです。後に種イモ貯蔵技術の発達と共に、植玉栽培へと変わっていきます。精粉加工は、明治初期に茨城県久慈郡から加工技術を導入し、下仁田以西の山間の急流を利用した水車による精粉加工が盛んとなります。こんにゃく芋栽培も同町を中心にだんだん広がり、各地のこんにゃくは次第に、下仁田町に集まり 「こんにゃくの町」 としてその名が全国に知られるようになりました。
参考文献:蒟蒻の伝来http://www.in-ava.com/konnyaku.html